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プロフィール

「民報宇摩」議会ごとに発行し、市政の様子を市民のみなさんにお伝えしています
略歴1950年生まれ。県立三島高校商業科卒。71年、宇摩民主商工会の創立に参加し、翌年から98年まで事務局長。75年に県議会議員選挙、85年、伊予三島市長選挙に立候補。98年、伊予三島市議に初当選。04年から合併に伴う四国中央市議。宇摩民商相談役、前愛媛医療生活協同組合理事。趣味はスポーツ鑑賞。2020年11月をもって議員を勇退。

一人の先生との出会い

7人兄弟の末っ子に生まれた青木さん。少年時代は牛乳配達で家計を支えました。三島高校卒業後、一時期腰を悪くして入院した時、高校時代の恩師が何かと心配してくれました。
「一人の教え子にここまで一生懸命になれる先生がいる…」――。その驚きはいまでも忘れられません。

人生や平和、社会のことなど、先生の話はどれも新鮮でした。ベトナム戦争が激しさを増す中、次第に目が社会へと向いた青木さん。ある日、先生が日本共産党員だと知ります。
「僕も人や平和を大切にする世の中をつくりたい」との想いを胸に日本共産党に入ったのは、青春まっただ中の二十歳の春でした。

人生の倒産はさせない

「中小業者をささえるために宇摩地域に民主商工会をつくりたい。力を貸してほしい」との話が舞い込みます。創立に参加して以来26年間、宇摩民商で汗を流します。深刻な不況、大型店出店、元請企業からの単価切り下げなど、相談はどれも切実で、一刻を争うものばかり。

借金を苦に自らの命を絶つ…。そんな話を耳にした時、青木さんは誓いました。
「事業の倒産はありうること。でも人生の倒産は絶対にさせない」と。
一つひとつの相談と向き合い、解決をめざして、すぐ行動してきました。

不当な圧力許さない

85年、旧伊予三島市長選挙に立候補。当時、問題となっていた現職市長と暴力団との癒着を追及し、「公正な市政を」と訴え、善戦。
すると投票日から4日目の午後。選挙を終えた青木さんが民商で仕事をしていると、突然事務所に男が侵入。ピストルの銃口は青木さんをにらんだ後、天井を向き、続けざまに「バーン」と6発。癒着追及の報復でした。
「民主主義を力で押しつぶそうとする行為は絶対に許せない。暴力を一掃しよう」と市民に呼びかけました。

市民の代表として

98年、故藤井清太郎さんの議席を引き継いで旧伊予三島市議に初当選しました。
2004年、旧伊予三島市、旧川之江市、旧土居町、旧新宮村との合併では、合併後も議員が居座る在任特例が大問題に。青木さんは市民と力を合わせ、議会の自主解散を求める署名集めに奔走し、ついに解散に追い込みました。

県立三島病院の移譲問題では、存続と充実を求める市民運動と議会の内外で力を合わせ、 中小業者の仕事づくりと雇用確保に効果のある、住宅リフォーム助成制度の実現を求めて署名集めに奔走するなど、いつも市民の願いとともに歩んでいます。